1969年に発行した中国の地図には、尖閣諸島(沖縄県石垣市)が日本語名で表記されていたことがわかった。
外務省がこの地図を公式サイトに掲載した。
地図は、日本の国土地理院にあたり測量などを行う政府機関「中国国家測絵総局」(当時)が発行した地図集の一部。
尖閣諸島を中国政府が現在使っている「釣魚群島」「釣魚島」という表記ではなく「尖閣群島」「魚釣島」と日本語名で表記している。
これを受けて、中国外務省の報道官は定例記者会見で、日本の外務省がホームページで公表した尖閣諸島を日本領土と表記した中国政府発行の地図について次のように述べた。
「歴史の事実は、1枚や2枚の地図を見つけ出したからといって覆せない」
報道官は地図を見ていないとした上で、尖閣諸島について「中国に所属することは否定できない事実であり十分な歴史と法の根拠がある」
「もし必要ならば、明らかに中国に所属すると示す100枚、1000枚の地図を探し出せる」と述べたという。
さて、中国の故事に「病膏肓に入る」(やまい・こうこう・にいる)というのがある。これには語源となる物語がある。
紀元前581年のこと、晋国の景公は病の床についていた。ここまでならば未だ救われる話だが、この話には肝心要(かなめ)の続きがある。
ある晩、悪夢を見る。
地面の届くほどの長いザンバラ髪をふりみだした化け物が、胸をたたき、躍り上がって「よくもわしの子孫を殺したな!わしは天帝の許しを得たので、お前を取り殺してやる!」と叫び、門を壊し、戸を蹴破りながら、驚いて逃げる景公をどこまでも追いかけてくるという夢だった。
実はこの景公が位についた時、司法大臣に屠岸貰という人物を任用したのだが、この人物が自分に都合が悪い目の上のたんこぶであった大夫の趙家にある罪をかぶせて一族を皆殺しにしてしまったのだった。
しかし、その罪を咎めずその後ずっと放置していたという事で、趙家の先祖の霊が十数年後経って、景公にとりついたのである。
景公が翌朝、占いの巫女を呼ぶと、巫女は景公がまだ何も言わないうちに
「趙家の先祖の祟りがございましたのでしょう」と言った。
景公が「どうしたらよいのだろう」と聞くと、巫女は「残念ながらすでに手後れでございます。殿は今年の新麦(6月頃)を召し上がることはできないでしょう」と答えた。
果たしてその通り、景公の病は一段と重くなった。
そこで景公は、大国の秦で名医の誉れ高い「高緩」に治療を依頼した。すると「高緩」が晋国に到着する前に景公はまた夢を見る。
今度は“病気”が2人の子供に姿を変えて話をしている夢であった。
一人の子供が言った。「高緩は名医だからな、きっとひどい目にあわされるよね。どこに逃げたらいいだろう?」
すると、もう一人の子供が言った。
「膏(横隔膜の上の方)の上と肓(心臓の下の方)の下にいれば大丈夫さ。どんな名医でもどうすることもできないさ」
まもなく「高緩」が来て、景公を診察したが「この病気はとても治療いたしかねます。病気が膏の上、肓の下にありますから、治療してもだめで、針も届かず、薬も行きわたりません。手の施しようがございません」と言った。
これを聞いた景公は「たしかに名医だ」と称賛し、たっぷりの礼物を与えて「高緩」を帰したという。
名医にも匙をなげられたとはいえ、景公はすぐに亡くなったわけではなかった。今の中国共産党政府は、この故事を「地で行く」ような道を着実に歩んでいるのではないだろうか。
なんとか命を細々とつなぎ、やがて6月になり新麦の収穫を迎えた。
景公はその新麦で麦飯を作らせ「今年の新麦を召し上がることはできないでしょう」と預言した巫女を呼び寄せた。
「お前は、私が新麦を食するまでは生きてはおらぬと申したな?」といって首を切ってしまった。
だが不幸はその後にやって来た。
その麦飯に箸をつけようとした時、景公は急に腹具合がおかしくなり便所へ駆け込んだが、なんと便器の中に(昔のことだから肥溜めの中に)落ちて死んでしまったのだ。一巻の終わり…

コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「病膏肓に入る」へのコメントを投稿してください。