大震災から一年の月日が流れたが、まだ辛い立場にある人達が多いので痛苦に耐えない思い。両陛下がご出席されて追悼式が行われたニュースもあったが、各テレビ局で放送された特集番組で知らなかったことも多くあり、改めて大震災が残した大変な現実を知ることになった。
随分前に読んだ本の中に、両陛下が避難所をご訪問された際の秘話が書かれてあり、印象に残っているので記憶を辿りながらしたためておこう。
何箇所かの避難所を回られている時、ある体育館での出来事。「子供の手を握って何とか助かりました」と体験談を話す女性の被災者に対し、皇后陛下が「子供を守ってくださって有り難う」と仰り、別の被災女性が「何とか助かりました」と話したら、「生きていてくれて有り難う」と返され、本人だけではなく周囲にいた人達が感動したとあった。
これは、皇后陛下の優しいお人柄をそのまま物語るような温かいお言葉だが、人の社会は言葉一つで傷つけたり救ったり出来るのだから学びたいものだ。
さて、国旗の「日の丸」や国歌「君が代」問題が騒がしいが、筆者は、小学校一年生か二年生の時、授業の中で「日の丸」の国旗を作った経験があり、竹やぶで細い竹を切って学校に持って行ったことを憶えているし、それをなぜ作ったのかをその数日後に知ることになった。
昭和28年前後だったと思うが、戦後の復興に関し、昭和天皇が全国を行幸され、私がいた地に来られることになり、ご一行のお車が通られる県道の山手から日の丸の旗を振ったことをはっきりと憶えている。
多くの車が通過したが、その中に別格みたいに2台の車があり、一台は黒、もう一台は小豆色だったが、結構離れていたのでどちらに陛下がご乗車されていたのかは分からなかった。
その日、陛下がご昼食に入られた割烹が筆者の親戚で、一同が名誉なことだと喜んでいたのも懐かしいところだ。
さて、同じ「言葉」の問題ついてだが、先月に問題になったワタミのトップ渡邉氏について、あるジャーナリストが「マザー・テレサ」さんの言葉を紹介して厳しい批判を書いていた。
「自分の国で苦しんでいる人がいるのに、他の国の人間を助けようとする人は、他によく思われたいだけの偽善者である」というものだが、そんなワタミが東北の震災に関して「雇用」目的で進出計画を実行したことはよいのだが、あまりにも騒がれた後遺症的余波として、その賃金が法律で定められた最低金額であり、そのことを追求された渡邉氏が、他の賃金に影響を与えたくないのでと返していたことに、何か気の毒な思いを抱いた出来事だった。
奪い合いもなく、整然とした被災者の姿勢が世界中から賞賛された一方で、今日のある新聞に掲載されていた記事には衝撃を受けた。悪い若者達が被災地に乗り込み、放置されていた車のガラスを割って車内を物色、ターゲットとなったものは「ETC」対応のクレジッドカードで、膨大な被害事実が判明、ハイエナ行為と指摘していたが、それこそ「火事場泥棒」という最低の行為で、天罰が下ると確信して止まず、嘆かわしい連中が存在している現実に怒りを通り越して悲しさを憶えている。
「切符のこと」の号で、娘から「認知症では?」と嫌味を言われたと書いたが、その後、もっと酷いミスをしたことがあるので恥ずかしながらしたためよう。
50代後半の寒い冬の出来事だった。夫婦で関東方面へ出掛けていた帰路のこと。東京駅で切符を買う際に、ふと温泉にでもと思い立ったのが午後4時頃。伊豆には時間的に無理なので熱海ということを決め、やがてある旅館に電話を入れて予約をした。
「こだま」で約50分で熱海駅に着き、ホームから階段を降りている時に感じたのが<なぜ?こんなに寒いのだ?>ということ。気が付けば、コートとマフラーを網棚の上に置いたまま降車していたのである。
それに気付いた時、「こだま」はすでに出発してしまった後。そこで携帯で娘に電話、号車と席の番号を覚えていたので対応を頼んだ。
タクシーで旅館に向かっている時、娘から電話が。忘れ物の確認が出来たようで、次の日に名古屋駅の忘れ物扱い所に行くことになって解決したので安堵。昔からコートが嫌いだったところからこんなことになったのだが、この時、こんな偶然がというような酷い目に遭った。
「到着しました」と運転手さんに言われた旅館のイメージが想像と全く違っている。山手だった筈なのに海側に来てしまっている。<何かが変?>と思いながら玄関を入ったら、フロントには誰もおらず、いよいよおかしい?と思い出した。
やがてベルを叩いて出て来られた人物に予約のことを伝えると、「伺っておりません」とのことで<やはり!>と気付いたが、その人物から似通った名称の旅館があることを教えて貰い、仕方なく通り掛かりのタクシーでも止まるだろうと歩き始めた。
この時の寒さは今でも忘れられないほど強烈。さっきの旅館でタクシーの手配を願うべきだったと後悔したが、助かったのは10分ほど経ってから通り掛かったタクシーが止まってくれたから。
「熱海駅から乗車されたタクシーの運転手のミスです。プロだったら必ず確認する筈ですから恥ずかしい限りです。組合に伝えておきます。申し訳ございませんでした」と謝罪さされたが、考えてみればこの運転手さんの責任ではない。やがて到着した旅館、本当に似通った名称だったので改めて驚いた。
部屋に案内され、お茶をいただきながらここまでの経緯を話したら、月に何度か間違えるケースがあると言われたが、まさかコートとマフラーを忘れた時に、こんな目に遭うとは踏んだり蹴ったりという大変な日であった。
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昭和40年の頃、コネを使ってある観光バス会社にアルバイトで入り、冬場の毎週土曜日に出発するスキーバスの助手として楽しい経験をした思い出がある。
土、日の二日間で2500円の収入だが、往復に立ち寄る大きなドライブインでは乗務員が大歓迎され、運転手さんは2000円、助手は1000円の臨時収入があり、往路と復路となるのだから有り難く、毎週末に4500円の小遣いを稼いでいたことになる。
当時の4500円と言えば、若い私の年代にあっては大金。仲間が郵便局の配達員や百貨店のお歳暮配達員のバイトをしていたが、実入りとしても群を抜いていたバイトだったと思う。
収入は時折に予想もしなかった心付けをいただくこともあった。ひとつなら運転手さんだけにしていたが、中には二つも用意くださることもあり、それこ臨時収入と呼ぶ有り難いものだった。
ドライブインでの休憩時間は30分だが、乗務員専用のコーナーがあり、「帰りも寄ってね」とか「来週も寄ってね」と言われて蕎麦やうどんが食べ放題。50名近くが乗車されているのだから売り上げがかなり大きい筈。運転手さんの間では互いの情報が交わされていたようだ。
これでお客さんと一緒にスキーを楽しんでいたのだから最高に羨ましがられたアルバイト。
行き先は神鍋高原や戸倉スキー場だったが、現地での駐車場スペースの確保やタイヤチェーンの装着や取り外しの手伝いは冷たいし汚れるので大変だった。
若い女性ばかりの団体が特に大変。最後部の窓からソリを入れ込み、走行時に揺れても崩れて来ないように積み上げる作業には苦労があったが、何やら自然に競争原理が働くみたいで、快く手伝ってくれたり、様々なプレゼントを貰ったので大歓迎だった。
全員が乗車されて出発となるが、そこで「本日は**観光バスをご利用くださいまして」なんてマイクでアナウンスをしなければならないし、摂津と丹後を結ぶ摂丹街道はカーブが多く、網棚の荷物が落ちてこないようにと案内するのも仕事で、運転手さんから「お前、会社のガイドよりうまく喋るな」なんて言われたこともあったが、「次カーブ、前方からライトあります」という情報も伝えていた。
そんな恵まれたアルバイトだったが、世の中はそんなに甘くないもの。考えてみれば当たり前のことだが、スキー場に午前5時頃に着き、夜明けと同時にゲレンデでスキーを楽しみ、夕方に現地を出発するのだから睡眠不足は当然のこと。車内の暖房が効き始めると睡魔に襲われ、助手席でついウトウトしてしまうのが運転手さんに申し訳なかった。
市内で指定される出発場所は様々。団体で貸し切られた会社に着けたこともあったが、印象に残っているのは国立病院の横にある大塩平八郎の碑の前。上町筋で心配だったが、午後11時ぐらいの出発なので交通量が少なくて問題がなく、今では想像もつかない長閑な時代だったと言えるだろう。
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